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執筆者の写真職人タカシ

吉野ヶ里遺跡 九州旅行 Part.3

更新日:2022年1月20日



⑤緻密に再現された建築物

主祭殿に来るまでに沢山の建物に入りました。建物を見れば見るほど、この歴史公園を作るのに莫大な予算が使われたことが分かります。目に触れるほぼすべての建材に、釿(ちょうな)や鑿(のみ)といった大工道具で表面を削った跡がつけてあるのです。リアリティーを出すために、木材の表面のでこぼこまで再現されています。木材を用意するだけでも大変なのに、とても時間のかかる作業です。

吉野ヶ里遺跡
最高司祭の住居からの眺め

また、集落の茅葺き(かやぶき)屋根に使われている大量の茅を用意し、それを屋根にする施工費は、需要が少なく非常に高額です。私が以前関わっていた、江戸時代の古民家の茅葺き屋根をふき替えるのに、2000万円ほどかかったのを覚えています。普通の民家サイズで、それぐらいかかります。日本政府と佐賀県がこの遺跡を、とても重要視しているのでしょうね。


吉野ヶ里遺跡北墳丘墓
北墳丘墓

⑥歴代の王の墓・北墳丘墓

主祭殿がある北内郭の裏口をでると、数百メートル先に四角い古墳のようなものが見えます。公園マップには「北墳丘墓」とだけ書かれています。大阪にも時代は違いますが、古墳が沢山ありますので、特に何も期待していませんでした。

「あれ?中に入れる?」

なんということでしょう、このお墓、中に入れるんです!テンション爆上がりです。日本には中に入れるお墓は沢山ありません。近畿でも石舞台古墳ぐらいにしか、私は入ったことがありません。ドキドキしながら中に入ります。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓
14人の魂が眠る(本物の棺)

約2100年前に作られたこの大きな墓には、王や位の高い人物が14人埋葬されていました。長さ2mにもなる陶器が棺として使われています。陶器が棺って、、、こんな大きな陶器をつくる技術にも驚きです。半々で作って、一つにくっつけていたとのこと。骨壺なら陶器で納得なのですが。人をそのまますっぽり納めたい理由があったのでしょうか?

北墳丘墓の棺の中
北墳丘墓の棺の中

これが棺の中を再現した模型です。これは、、、タイムカプセル!?ではないでしょうか?火葬にせず、そのままの姿で埋葬した理由がなんとなく想像できます。綺麗な服装に貴重なガラス管玉の装飾品、銅剣を携えています。はい、この人物は次の世界で生活する気満々です。 そういえば、主祭殿で最高司祭が先祖のお告げを聞くために祈っていた方角は、今いる場所です。当然と言えばそうですが、実際に棺を目の前にすると、急に現実味を感じます

甕棺かめかん
甕棺(かめかん)の配置図

この大きな素焼きの陶器で作った棺は、甕棺(かめかん)と呼ばれています。日本では佐賀や福岡など、北九州でしか発見されていません。こんなものの存在を今まで聞いたことがありませんでした。この遺跡、本当に凄いです。

弥生時代を再現したエリアは残り2つ「倉と市」と「南のムラ」です。吉野ヶ里遺跡公園は広大で、それほど遺跡とは関係のないエリアが沢山ありますので、それは全部スキップします。

吉野ヶ里の倉
倉に置いてある防具や武器

高床式になっている倉には食料、防具や武器、交易に使うものが貯蔵してあります。武器が沢山あります。争いの道具は、いつの時代のものでも、見るのがちょっと怖いですね。


南のムラは一般人が住んでいたと思われる住居が並んでいます。もう少しグレードの高い居住区を最初来た時に十分見れましたので、ここは足早に見学します。途中、農業体験や「弥生くらし館」で勾玉づくりなどができます。なんとなく楽しそうですが、お子様ばかりだったのでスルー。

古代海汁御膳30食限定
古代海汁御膳30食限定

遺跡公園の正面入り口まで戻ってきました。冒頭で言っていたレストランで、数量限定ランチをいただきます。古代米の赤米を使ったおにぎりや、ムツゴロウが食べれます。有明海のムツゴロウもいつか観に行きたいですね。


見た目は真っ黒に焦げているように見えますが、まったく焦げた味はしませんでした。普通に焼き魚の味です。アサリのスープはとても濃厚なダシがでていて、美味しいです。吉野ヶ里は海に面していませんが、ここの弥生人はアサリを食べたのでしょうか?大阪は海に近いので、貝塚があり地名にもなっています。


お腹も膨らみましたので、次は長崎に向けてドライブです。

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吉野ヶ里遺跡公園ギャラリー3

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